さくらしめじノカタチと家族ノカタチ

このブログではさくらしめじの音楽について書くことが目的であって、ドラマについてやそれ以外のことは他の方にお任せしようと思っています。けれども、今回はどうにも書かずにはいられないということで、筆をとる次第でございます。

これまでの文章から明らかなように、言うまでもなく私は髙田彪我くんという人物に惚れ込んでいるわけですが、これまで彪我くんが月9に里中由希役で出ようとも、話題は出すにしてもブログでそこまでドラマのことは取り上げませんでした。

 
しかし、今回、髙田彪我くんが永里浩太役で出演しているTBS日曜劇場「家族ノカタチ」の第7話で、川澄匠役で田中雅功くんが出演して、二人が共演。それがこんなにうれしいものとは自分でも思いませんでした。僕は二人の音楽が聴きたいのであって、ドラマの出演は、姿が見られるのはうれしいにしても、もともとはどちらかというと否定的でした。演技が表現力を延ばす、などということはあるんでしょうけど、それは技術があってのこと。音楽でプロとしてやっていくならば、今はしっかり音楽に打ち込んでほしい。そう思っていたわけです。
 

けれども、いいですね。二人がそろって出る、ということがよかったのかもしれません。なんとも言葉にならない喜びでしたね。きのこりあんでよかった、と。月9で彪我くんが有名になるのはそれはそれでうれしかったですが、やっぱりさくらしめじは二人の歩みがそろってこそですね。でも欲深いもので、雅功くんにはもっと出てほしいと思ってしまいます。もうこの際二人で軽音に入ってギターを持って歌ってほしい、とかね。

ドラマの内容も良かったからかもしれませんね。僕は僭越ながら(笑)、昨今のテレビドラマに対して低い評価を下していました。内容が薄っぺらいように感じ、あまり見ていませんでした(自分が薄っぺらいくせに偉そうですが)。しかし、このドラマはいいですね。テーマは家族なんでしょうけど、家族というよりも「生きるとはどういうことか」ということに真っ直ぐ切り込んでゆく感じですよね。皆、様々な矛盾を抱えて生きている。こうしたい、こうすべきだ、と思っていても、思うとおりにならない境遇を生きている。しかし、それを周囲は「そうしたいならすればいいのに」「努力が足りないからだ」と何も知らずにダメな人間と決めつけ、そのことが生きにくい世の中をつくっている。そんな中で、私たちは時に生きる意味を見失いそうになるほどに打ちのめされますが、そういう中でも前に進む生きる力を支えるものは何か。そういうことがテーマになっているようです。

 
中島みゆきさんの「ファイト」がドラマの中で取り上げられていましたが、まさにそんなことから歌い始めていますね。
 
皆さん、ここ以外はあまり知らないですよね。
 
  ファイト! 闘う君の歌を
  闘わない奴等が笑うだろう
  ファイト! 冷たい水の中を
  ふるえながらのぼってゆけ
 
実は一番の歌詞はこうなっています。
 
  あたし中卒やからね 仕事を もらわれへんのや と書いた
  女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている
  ガキのくせにと頬を打たれ 少年たちの眼が年をとる
  悔しさを握りしめすぎた こぶしの中 爪が突き刺さる
 
  私 本当は目撃したんです 昨日電車の駅 階段で
  ころがり落ちた子供と つきとばした女のうす笑い
  私 驚いてしまって 助けもせず 叫びもしなかった
  ただ 怖くて逃げました 私の敵は 私です   ・・・
 
中卒だから、と言う理由で仕事がもらえない女の子の話は、中島みゆきさんのラジオ番組に届いた実話だそうです。本当は高校に行きたかった、しかし家の事情を考えるととても行けない、と。他にもガキのくせにという理由だけで頬を打たれる。子供を突き飛ばした女性をみて、ほんとうは助けないとと思っても、怖くてにげてしまう。そういう話が歌詞になっている。
 
したいと思っているのできない、悲しいことがおこらないようにしようと思っていてもおこってしまう、よくないとわかっているのにしてしまう、そういう矛盾や葛藤、理不尽さを抱えて生きている。それなのに、世の中は「悲しいことがおこらないようにしましょう」「笑顔でいましょう」とか「これはよくないことだからこうしましょう」とか、そんなことばかりで、その矛盾や葛藤、理不尽をそのままに受け止めてくれる場所がない。辛さや悲しさを確かめる場所がなく切り捨てるだけです。こうしたい、こうすべきだ、と思いどおりになる自分には「価値がある」、そうでないことは「価値がない」「無駄」として切り捨てる。それを自分自身に対しても行い、他人に対しても行っています。
 
しかし、陽三さんは確か、辛さも悲しさもすべて栄養になるというような言い方をされていました。努力した結果からさかのぼって、自分の価値の上下を評価するのではない。思いどおりになる自分も、思いどおりならない自分も、どちらも自分として尊い。価値には上下があるが、尊さには上下はない。どんな自分にも無駄、無価値ということはないんだ、尊さだけがあるのだということを陽三さんは気づかせてくれました。
 
また、陽三さんは確かこうも言っていました。すべてはつながっていると。自分が今ここでうまくいっているのは、誰かがどこかで悲しんでいるからかもしれない。逆に自分が今ここで悲しんでいることが、誰かを支えているのかもしれない。だからこそ、今ここにいることを成り立たせているすべてのことが尊いということなのかもしれません。
 
しかし、そのことに自分一人で気がついていくことは困難です。自分の中に渦巻いている矛盾や葛藤、理不尽をそのままに受け止めてくれる場所があるから、自分が気づかなかったほんとうの自分自身に気がつき、安心して努力し、安心して失敗ができる。だからこその「ファイト」でしょう。
 
浩太くんの母、恵さんも「闘わない奴」になりかけていました。自分の価値を自分で決めていたのです。人はみな条件をつけて人をみる。こうだったらよいけど、こうだったらだめだと。みな「人」をみるのではなく、「条件」をみている。自分自身がそうだった。しかし恵さんは気がついた。陽三さんは無条件に、「人」そのもの、丸ごとの恵さんを見てくれた。そんな陽三さんの無条件の愛情に改めて気がついた。矛盾や葛藤、理不尽をそのままに、無条件に受け止めてくれる場所がここにあるのだと気がついた。思いどおりならない自分も自分だと認めてくれる場所があった。だからこそ前に進めたのではないでしょうか。
 
これはさくらしめじの歌の世界にも通じるものがあるように思います。「まわり道をして、横道にそれて、迷って、悩んで、疲れて、立ち止まって」「幸せ笑顔も、悔しい涙も何でも何でも丸ごと・・・」「ありがとうさよなら繰り返すんだよ」「晴れ渡る空も、ぬかるんだ道も、いつでもどこでもすべてを・・・」(「みちくさこうしんきょく」より)というように、よいことだけでなく、わるいこともすべてを包み込んでゆく。「何がよくて何がわるいの今はそんなのわかんないよ」(「さんきゅう」より)わからない、不安だけれど、むしろその不安が、まるごとの存在の尊さに触れさせる。そしてそれを支えるのは二人のお互いの存在です。二人は「おまえがこうだったら受け入れない」なんてことがない。お互いが無条件の愛情に支えられていると言えます。そんな姿に私たちは癒やされているのかもしれません。

ですから、ドラマの中で浩太くんが匠くんに出会ったとき、「さくらしめじ」の世界観がすーっと入ってきて繫がったのです。この出会いがこれからどうなるかはわかりませんが、前に進めなかった浩太くんが、一歩前へと進ませたその歩みはとても大きいものでしょう。それはさくらしめじの二人の出会いと繫がるようにも思われてなりません。そして二人がこのドラマと出会ったことが、さくらしめじの音楽の世界を、さらに広く深くしてゆく一歩となるかもしれません。

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